(市川 2005) 「教えない」英語教育 第1章、第2章

「教えない」英語教育 (中公新書ラクレ (176))

第1章 「教えない」英語教育のすすめ

安易なバイリンガル幻想への警告

私は、アメリカで13年にわたって、約1000人の日本人駐在員の子どもたちの教育に携わった。
(中略)
私にとって一番ショックだったのは、英語でも日本語でも会話では意思疎通ができるのに、読み書きとなるとどちらの言語でも困難な子供たちとの出会いだった。「日本語」も「英語」も自由に操れる「優秀な帰国生」はほんの一握りに過ぎず、多くの子どもたちは、二つの言語のはざまで翻弄され、気づいてみたらどちらの言語も中途半端になっていたというのが現実だった。

アメリカの塾で海外子女に日本語を教えていた市川氏、慶應大学で帰国子女に英語を教えている日向清人氏、そして帰国子女・海外子女の言語力の研究者であった小野氏、この三者は立場も時期も異なるが、まったく同じ内容の発言をしている。殆どの帰国子女の言語能力は、平均的水準に達していないという点で。

実際、英語を聴き取る能力は英語に日々触れるという経験がない人と比べ、当然いいわけですし、また択一程度の英語の問題などは慣れていますから、帰国子女の大学生だとTOEICで800点、900点クラスはざらにいます。学生どうしで、誰々は「帰国」だから英語はすごい、パーフェクトだみたいな話が出るのも無理もありません。
しかし、そういった「帰国生で、すごい」学生の答案を採点したり、発音を聞く機会のある身からすれば、9割かたが水準以下です。
〜中略〜
そうした帰国子女は英語ができるのかと聞かれたとしたら、たしかに発音はいい人が多いけれど、一般的には水準に達していないというのが私の答えです。世間のイメージどおり、英語に不自由がなく、同世代の英米人にひけを取らないレベルの人は、例外です。しかも、日本語の方も水準に達しているとなると例外中の例外でしょう。(慶應大学、日向清人氏)

また、私は1990年の夏から海外から帰国した児童・生徒を対象に日本語と外国語(主として英語)の語彙力調査を続けています。帰国子女のためのある英語保持教室での調査では、帰国直後の日本語語彙力が日本人の学年レベルに達している子どもは1割もいませんでした。
海外にいて日本語の力を保持するということもまた、それだけ難しいのです。

帰国子女の多くはTOEICで900点も取れるのに、年齢相応の言語レベルの人は1割程度しかいない。

これらの結果を、グラフにしてみよう。実線は一般の人の偏差値の分布。偏差値50が年相応で、50以上が50%。偏差値60以上が15.9%、偏差値70以上が2.3%。そして破線が帰国子女。年齢相応(偏差値50以上)が10%になるようにシフトすると、このようになる。

偏差値50以上が10%、60以上は1.1%、70以上はなんと0.05%になってしまう。誤解を恐れずに言えば、帰国子女になることとは、TOEIC900点と引き換えに偏差値を13減らすということになる。

このような言語力の低下はなぜ起こるのか? これに関して、帰国子女の会「フレンズ」が行なった興味深いアンケートがある。

帰国生母の会「フレンズ」が、2003年に、帰国生本人に行ったアンケート調査の一部である。この結果を見ると、多くの帰国生(105/257)が、母語を確立した後に外国語を学び始めたほうが良いと考えていることがわかる。母語と外国語とを共に伸ばしていく難しさ、大変さを実感している当事者としての見解だけに、非常に興味深い。

たとえ母語を完全に獲得した後にバイリンガルに挑戦しても、すべての人がうまくいくわけではないだろう。しかし、成功する確率は確実に上昇するはずだ。

第2章 「大人英語」への道筋

小学校低・中学年までに「英語」に触れるメリット

上記のような両言語力の低下は、なぜ生じるのか。著者の市川氏は、以下のように述べている。

アメリカでの日本人駐在員の子どもたちへの教育経験から考えると、社会で使われる言語、学校で使われる言語、そして友だちと話す言語の三つが英語で、家庭でしか日本語を使わなくなると、渡米時期が幼児期から小学校低学年までの間である子どもの場合、半年もたたないうちに日本語力が低下し、よほど意識して使わない限り、日本語で話さなくなる。数年後には完全に英語有意になり、母語が入れ替わってしまったと考えざるをえない状況に陥る。会話面では母語のスイッチがおきても、家庭で使われる言語のレベルが日本語、英語両面で貧弱だと、日本語でも英語でも読み書きの力が育っていかない。その結果、どちらの言語でも読み書きに難のある、いわゆる「セミリンガル」状態に陥ってしまう。これは、日本でインターナショナルスクールに通う日本人の子供達にも多く見られる現象である。

英語と日本語の永続的な学習も重要であるが、SLIバイリンガル予防の最大のポイントはやはり学習言語変更時の母語の完成度である。そして母語が完成する年齢は、10代初めまでであると一般的には考えられている。

小学校高学年までにできる「母語」の基盤

9歳から10歳ぐらいの間に、認知能力、思考能力の質的な断絶があることを「9歳の壁・10歳の壁」という言い方をすることがある。小学4年生ぐらいになると、「9歳の壁・10歳の壁」を越えて、論理的に分析し、類推・比較し、まとめる力といった抽象思考能力や、文章構造や文章の流れをつかむ認知能力を発揮できるようになる。
(中略)
このように、小学校高学年は、母語の読み書きに習熟し、抽象的な思考が可能になる反面、大人の働きかけを素直に受け入れなくなる。知的な面だけではなく、精神的な面でも「9歳・10歳の壁」をどのように乗り越えていくかが、言語の学習を進めていく上で重要なポイントとなってくる。

これは知らなかった。こんな本も出ているようだ。今度読んでみよう。

子どもの「10歳の壁」とは何か? 乗りこえるための発達心理学 (光文社新書)

子どもの「10歳の壁」とは何か? 乗りこえるための発達心理学 (光文社新書)

私がアメリカに赴任したばかりの頃、流暢な発音で英語をまくしたてる小学生を見て、なんて英語がうまいのかと感動した。しかし、その子どもたちの多くが、教科書に書かれている英文を読み取ったり、ちょっとしたエッセイを書いたりするのにとても苦労していることに気づいた。そのとき以来、気心の知れた仲間どうしの会話に使われる「遊び場言語」と、読み書きを行うために必要な「教科理解言語」との違いについて意識するようになった。小学校低学年までは、高度な認知能力や思考力、語彙を必要とすることはなく、限られた定型区を組み合わせ、状況からの手がかりも利用できる「遊び場言語」で十分に対応できる。ところが、小学4、5年生になると、学習内容が複雑になり、単なる「遊び場言語」ではなく、抽象的な思考や論理的説明・表現を行うために「教科理解言語」を用いなければならなくなる。

母語の基盤を完成させるということは、単に言葉をうまく操れるという以上の大きな意味がある。それは、論理的な思考が可能になるということだ。人は何かを考えるときに、頭の中で母語を利用している。高度な思考を行うためには、母語のレベルを高めておく必要があるのだ。

「子ども英語」から「大人英語」へ

前節で、小学校高学年までに母語で読み書きできる力を高めることを強調したのは、より高度な英語の学習をするためには、母語の力が大いに関係してくるからである。カナダの言語学者カミンズは、母語と第2言語とは、音声構造・文法構造・表記法といった表層面は異なっていても、論理的に分析し、類推・比較し、まとめる力といった抽象的な思考に必要な能力、文章構造や文章の流れをつかむ能力といった認知能力に関わる深層面では共有する部分があるという仮説を立てた。カミンズは「氷山」を模して、この仮説を説明したが、海に沈んできる部分の能力は、異なった言語どうしでも共通して利用できるという推測は、実際に教育現場において確認できる事実とも整合性を持つ。
http://benesse.jp/berd/center/open/berd/backnumber/2006_05/img/nakajima_fig03.gif
私がアメリカでであった日本人の子どもたちのことを思い起こしても、渡米時期が小学校高学年以降だった場合、現地の学校になじみ、アメリカ人の友人を作ることが難しいこと、日常会話に不自由しなくなるまでに時間がかかること、といった点では、就学前から英語環境にいる子どもたちと比べて苦労していた。ところが、読む・聞く・話す・書くすべての分野においてバランスよく英語力をつけるという点では、渡米時の年齢が高く、日本語の読み書き能力のある子どもの方が優れていた。

バイリンガル」という言葉に対して、ネイティブに近い発音をしたり、日常会話を苦もなくする姿を思い浮かべる人は多いだろう。そしてそれを実現するためには、できるだけ若い時期に英語環境へ移した方がいいのは事実だ。しかし、それでは真のバイリンガル、いわゆるバランス・バイリンガルにはなれない。両言語とも年齢相応に扱えるバランス・バイリンガルに育てるためには、まず母語を十分成熟させ、氷山説でいうところの共有面を最大化させるという基礎作りが重要な鍵を握る。そしてそれは言語能力だけでなく、将来にわたっての高度な思考能力の獲得にも必要な作業なのだ。

まとめ
  • 複数のソースより、海外子女・帰国子女におけるバランス・バイリンガル達成の頻度は非常に低い(10%程度)ものと推定される
  • 英語環境への移行前に母語を確立させることが、バランス・バイリンガル成立の必要条件である
  • 母語の確立時期は、小学校高学年以降である